有隣寺だより
令和4年 夏 50号
有隣寺便り 50号 2022(令和4年)年 夏 文責 有隣寺住職 祖父江佳乃
蝉の声が耳をつんざく程に響いています。お変わりありませんか。
「先生、また手紙を書きます。この暑さに我々の長い手紙をお読みになるのは、ご迷惑だろうと思いますが、これも我々のような門下生を持った因果と諦めください」と、芥川龍之介が夏目漱石に送った文言そのままに、暑い中の有隣寺便りです。よろしくお読みください。
「以和為貴 和をもって貴しとなす」
これは日本の一番初めの約束事、十七箇条の憲法の初めの文です。推古12年(604年)、聖徳太子によって制定されました。今の憲法とは少し違い、道徳や心掛けを説いたものです。ここに出てくる「和」とは何を指すのでしようか。
「和」というと、すぐに思うのが平和です。
平和を辞書で引くと、戦争や紛争がなく世の中が穏やかな状態にあること、その様。と記してあります。今、隣の国、ロシアとウクライナが戦争にあります。戦争を起こしているロシアのプーチン大統領は敬虔なロシア正教の信者です。ロシア正教は、平和を尊ぶ宗教です。プーチン大統領は、平和を掴むために戰を厭わず、ウクライナに侵攻する戦車に聖水を浴びせ、この戦いは聖なる戦いであると主張し戦争を賛美しています。このことを垣間見ると、和と平和は少し違うと感じるのです。
聖徳太子はこの憲法の二文目、「以和為貴」の後に「篤敬三宝」篤く三宝を敬えと記しています。
三法とは「仏・法・僧」のことです。仏は仏様。法は仏法=仏様の教え。僧は僧伽=仏様の教えをいただいた人々、すなわちこの国の民全て。
仏の教えは奪わない教えです。代わること、代えることなどできない尊い命を」大事にする教えです。自身の幸せが他者の不幸の上にあってはならない。平和のための戦さなど考えも及ばない平等の教えです。
「和」を訓読みすると、なごむ。やわらぐ。あえる。
どんな時に、なごむ?どんな時に、やわらぐか?どんな時にあえるか?
それは。手を合わせた時です。手を合わせると、心は穏やかになり、身が整います。
自身の良い部分と、悪い部分、その両方を併せ持っての自分だと自覚する合掌はインド起源の礼拝の仕草です。礼拝とは、おがむことです。仏と向き合うことです。手を合わせ、仏と向き合う。そのことで自身の今が顕らかになり、その自分を大きな慈悲で仏様が包んでいたくださることに気づく。そのおだやかな行い、おだやかな自分に導かれる、おがむ心を聖徳太子は大切にしなさい。(貴=大切にする)とおっしゃり、日本の最初の約束事、十七箇条の憲法の一番に記したのです。
秋の彼岸会・永代経
9月17日土曜日 10時から12時まで
お話 加島法律事務所所長 加島光弁護士 当山住職 祖父江佳乃
(お葬式について。お葬儀までの儀式の流れ。遺言、相続など、いろいろ)
どなた様もお参りください。
おみがき
9月15日9時半より お手伝いください。
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要
2023年、親鸞様が誕生して850年、そして浄土真宗が開かれて800年となる歳を迎えます。
その慶びを讃える法要が明年、3月から始まります。
有隣寺では4月8日土曜日に団体参拝に赴きます。
ご参加ください
真宗大谷派東本願寺本年度の予算
その慶讃法要には14億6184万194円の予算が計上されています。
それを含み、2022年7月1日から2023年6月30日までの2022年度の、真宗大谷派の予算は77億1100万円となっております。これに伴い、東本願寺の末寺である有隣寺からは、毎年と同様、もしくはそれ以上の本山護持金を上納依頼が本山よりまいります。
本年も門徒会費として皆様に一万円をお願いすることです。同封の払込書にて、お振り込みください。お願いいたします。
カルト 信仰宗教
人間は先行きが見えなくなった時、「正しい」メッセージに惹かれ、依存していきます。
自分がこの先、何が正しいのかわからず、迷いながら死んでいくのに耐えられない。
ほとんどの人は、今が楽しければとか、お金があれば、家族が幸せなら、といったところで納得させます。が、それができない人は、正しいことをして人を救うことで、自分の存在意義を確認しようとします。そんな中で、「あなたの人生、こう生きれば、神様に認められる」というような正しさに惹かれてしまうのです。信仰宗教にのめり込んでいく人は精神的に弱っていたり、優柔不断な人が多いかと思いがちですが、違います。上記のように、「人間はなぜ生きているのだろう」と普通の人がスルーしてしまうようなことを掘り下げてしまう人がはまりやすいのです。その年齢には2種類あると言われています。一つは20代前後の若者。必死に受験勉強を頑張って大学に合格したら、その先の目的がなくなってしまう。もう一つは男性だと、定年退職後、女性は子育てがひと段落した人。一生懸命だった人が、何も無くなってしまった時、空虚さを感じた時です。信仰宗教・カルトにはまらないように。 虚しさを感じたら、どうか有隣寺に来てください。
どんな時でも、どなたでも。
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